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『ソロモンの指輪』
【24 陸りく】 極彩色の霧の中に居るような。 毒々しい色あいの花粉が幾重にも舞い踊っていた。 この場所には一年を通して様々な花が咲き誇る。 その大半は猛毒の花粉を撒き散らし、死した獲物を苗床にまた新たな花が開く。 新宿<御苑>の花園。 纏いつく花粉を気にする風もなく歩む人影があった。細身の長身を白シャツとブルージーンズで包んだ、仮面の男。秋ふゆはるだった。 ふゆはるが歩いた後の空気が色褪せる。彼の人の存在から漏れ出す、絶望の予感によって。 「ここか」 聞くものの希望を根こそぎ奪う声音が、ぽつり、言った。 目的もなく無造作に歩んでいたのではなかったようだ。ふゆはるの腰までを覆う花々の絨毯が、ぽかりと途切れていた。それは綺麗な円を描いていた。半径、およそ十メートル。今もじりじりとその版図を広げている。 枯れ草の降り積もる褪せた色あいの円の中心に佇む大きな影があった。近づくと、それがぴたりと身体に沿う黒衣を纏った長身の男であることが分かる。服と同じ色をした髪は短く刈り込まれていた。逞しい肩に小さな白い影が載せられている――白いブラウスとからし色のジャンパースカートを身につけた幼い少女だ。豊かな黒髪は長く伸ばされて、彼女自身の身長を越えているのではないかと思われた。すなわち、外見から想定される年齢を、超えている。 こぼれんばかりの黒瞳を無感動に瞬いて、幼女が小首を傾げた。 「秋、せつら？」 幼子らしい愛らしい声音がそう訪ねた。 「あんなものと俺を間違えるな」 応じたのは、恐ろしく不機嫌な、そして絶望的な声だった。 「つまり、わたくし達の敵ではないということですか」 「それはまだ分からんな」 「ならば、あなたの名前を聞いておきましょう」 「秋ふゆはる」 女神のごとき傲慢さで投げかけられた言葉に、まさかふゆはるが応じるとは。 それを当然のことと受け止めて、幼女は自らの名を告げた。 「わたくしの名はアストレイア。これの名はアルデバランです」 大男の方は一切口を聞く気配がない。口を聞かないのか、聞けぬのか。 「花を枯らしたのは貴様たちか」 「答える必要のある質問でしょうか」 「俺は、花屋だ」 きょとりと、黒瞳が見開かれた。次いで零れるように笑い声がつづいた。 「おかしな男ですね」 「答えは」 「精が――足りないのです。目覚めは緩慢で腹立たしいほど」 幼女――アストレイアの指先が愛しげに男――アルデバランの頤を這う。淫靡、ともとれるような緩慢さで動くその指に煌く指輪。 「新月までは十日あまり。わたくしも、これも、万全の形をととのえておく必要があります」 そっと、男の手が幼女の小さな手に重なった。太く節くれだった男の指にも、幼女とは異なるデザインの指輪が嵌められていた。 「理由にならんな」 断ち切るように無常な返答だった。 「あなたに認めていただく必要はありません」 「この街では、何をするのも自由だ。行動も、思考も、制限されることはない――相応の報いを受ける覚悟があるならば」 吹き付ける鬼気にも、幼女はうっそりと微笑んだだけだった。 「この都市の妖気色濃い場に御印を穿つのがわたくしたちの役目。力ある人の子の血潮が得られるならば尚、重畳というものです」 「この街のことを知らんらしいな」 「ここが魔界であることならば幾重にも承知しています。なればこその、楔。なればこその、贄なのではありませんか」 「この街も、花々の一輪すらも人の思惑通りになどならん。だからこその<魔界都市>だ」 言い終わらぬ内に、大男と幼女の周囲で枯れ草が蠢いた。一瞬で繁茂した極彩色の草花が蔓を伸ばし、生気を奪った敵へと襲い掛かる。儚い野草と侮ることはできない。その茎も、花も、植物体すべてに魔都の毒と妖気を蓄えた妖花なのだから。 アストレイアとアルデバランは動きもしなかった。 幼女の愛らしい唇が、ふうと吐息を吐き出した。それだけだった。 その、吐息ひとつで。ふたつの影を覆い尽くそうと襲い掛かった蔦すべてが力を失い色褪せようとは。騒然たる空気は薙ぎ、辺りは元の沈黙へと返った。 するりと、アストレイアが男の肩から滑り降りた。ジャンパースカートの裾がふわりと舞い、艶やかな黒髪が小さな身体を取り巻くように蠢く。小さな足が地面に降り立つことはなかった。水に浮くように、中空を漂っている。 「この都市をよく知る男。この都市そのもののような男」 傲慢な視線がふゆはるを射た。妖婦のごとき媚と艶を含んだ視線が。 「わたくしをお抱きなさいな」 吹き付ける色香は成熟したそれだ。濃密に絡みつき理性を蕩かす。 「これよりも、貴方の方がよさそうです」 ぴくりと、アルデバランの眉が跳ね上がったが、沈黙は保ったままだった。 「美女の誘いならば断れんが。こんなガキ相手では、な」 表情ひとつ動かさず――仮面だが――変わらぬ寂たる声音が誘いを両断する。 「姿だけが問題ならば――」 変化は一瞬で起きた。舞い踊る豊かな黒髪が幼女の姿を一瞬だけ隠して。次いで姿を現したのは―― 「これで、わたくしを抱けますね」 幼女は――玲瓏たる美女へと変じたアストレイアは一糸纏わぬ姿でそう言った。
2013.10.30
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