朔

『ソロモンの指輪』

【29 陸りく】

　限界まで引き絞られた弦が放たれる鋭い音が渡った。空を切り裂く音。次いで、矢羽根が空を切る響き。
　妖気とも呼べるほどに磨きぬかれた殺気が赤銅色の髪を舞わせ、狂気に似た光を宿す瞳が金に輝いた。
　ソロモンの魔術師のひとり、パビル・サグだった。
「許さぬ……」
　低く囁き、新しい矢を弓につがえる。ぎりぎりと、女の細腕とは思えぬ力で強弓を引き絞る。
　ぴんと張り詰めた殺気を宿し、矢が空を疾る。
「わたくしから、ハマル様を奪ったこの街を、住民たちを、決して、許さぬ」
　切々と語られるのは怨嗟の言葉だ。
　いつまでも、矢が的を穿つ音が鳴らぬのが不思議だった。
　放たれた矢の数は、六。その全てが、光の軌跡を描きながら夜空を駆け、弓手から遥か彼方――数キロ先の地面に穿たれた。等間隔、同心円状に突き立った矢の軌跡を辿ると巨大な六芒星を成していた。
　血の気の失せた唇が術式を紡ぐ。白い肌は青ざめ透き通り、死人のごとき様相だ。
　彼女は、命を賭そうとしているのだった。
　――必要とされていないことになどとうに気づいていた。いくらでも換えの利く、ハマルの野望を果たすための単なるコマに過ぎないことなど、嫌と言うほど知ってはいた。
「なれど……っ」
　愛して、いたのだ。差し伸べられたその指先を、彼女を必要としていた事実を、何よりも、強靭なその魂を。貪欲な生命のかがやきを。愛していた。欲していたのだった。
　滔々と呪言を紡ぎ出す唇が震え、涙が一筋頬を伝った。
　パビル・サグの持つ指輪が輝き出す。真鍮の金が黄金のごとき輝きを放つ。
　女体の周囲を六対の影が巡っていた。彼女の指輪が宿す悪魔たちが、解放の時を予感して歓喜の波動を放っている。
　その遥か上空を、銀の輝きがちかりと掠めた。
　大きく羽ばたいた銀色の鷹は、一度旋回すると、急速に下降した。
　ぐんぐん高度を落とす先に、一心に術式をつづけるパビル・サグの姿があった。
　かぎ状に曲がった嘴が女の左鎖骨の内側を貫いた。ぐにゃり、鷹の輪郭は歪み鋭い錐状へと変じた銀の針金が一息に、パビル・サグの肺を、心臓を、臓腑を破壊した。
「貴様……は、」
　あえぐ唇からとめどなく溢れる鮮血が、白い衣を染め替えた。
　彼女を貫いた針金はそのままで、傷口からの出血はごく僅かにとどまっていたが、それは同時に体内に多量の血液が流出しつづけていることを示していた。肺の中に血液が充ちる。自らの流す血潮に溺れる。
「すまない」
　囁くようにそう告げて。
　カストルは女の身体を縦に貫き引き裂いた針金細工を呼び戻した。
　再び鷹へと変じた針金が嘴の先に咥えているのは、パビル・サグの持つソロモンの指輪だった。
　冷酷な冬の曇天の瞳が指輪の煌きを映しとり、差し出された右手にそれは落とされた。
　ぱちんと、乾いた音をたてて。針金細工の鷹は姿を解かれた。

　　　◇◆◇

　月齢２２、妖しく輝く下弦の月を、長身の影がかすめて過ぎた。
　翻る、闇色のコート。化鳥のごとく空を滑る影が降り立ったのは、この都市ではごくありふれた、うらぶれた廃ビルだった。
　崩れた壁の一角から室内に滑り込む。ぱきりと、硝子の破片が踏み砕かれて音がした。
　メフィスト病院でようやく目覚めたポルガラから聞き出した、敵のアジト――あの満月の夜にドクター・メフィストとソロモンの魔道師たちが邂逅を果たした廃屋であった。
　敵の本拠地で物音を立てるなど、秋せつらにしては杜撰な行為だが、その理由もすぐに知れた。
　気配が、ないのだった。
　せつらが足を踏み入れる以前に放たれた妖糸は瞬時に廃ビル全体に拡散し、詳細な情報を彼にもたらしたが、無害な妖物の気配が数十、それ以上の生物反応は見られなかったのだった。魔道師のアジトらしからず、結界のたぐいも一切ない。
　殺気も、争いの残滓もない屋内をのんびりと点検してゆく。
　魔道師が好んで身につけるような黒のローブが打ち捨てられるようにしてわだかまっているのが数着、確認できた。
「逃げたか、殺られたか」
　ぽつり、呟いた。恐らく後者であることを知っていた。
　かすかな共鳴の音に、せつらの眉が少し上がり。コートのポケットから小箱が取り出された。
　無造作に留め金を外し蓋を開く。
　――音もなく。
　柔らかな月明かりの下、指輪のひとつがさらさらと崩れ去る様が見て取れた。
　カストルがメフィストから指輪を奪い姿を消してから、三日。
　十一を数えたレプリカの指輪は既に六個が、その半数が喪失していた。
　カストルが手にした指輪と対になるレプリカが崩壊しているのであろうことは、最初に奪われた指輪――アストレイアとアルデバランが有していた指輪が直後に崩れ去ったことから推察された結論だ。
　淡々と、箱を仕舞いこむと、振り向きもせずに声をかけた。
「――遅い」
「君と待ち合わせをした覚えがないのだが」
「言い訳は情けないよ」
　そこでようやく振り向いた。
　朧に降り注ぐ月光で、純白のケープがゆらゆらとゆらめいているように見える。
　この世に唯一の至高の美をぞんざいに睨みつけ、せつらが言う。
「新月まであと七日だ」
「そうかね」
「何が起きる」
「あの時は、街がひとつ消失した」
「そうかい」
　なんだそんなものか、という調子だ。
「失敗だった、と彼は言っていた」
「ふむ」
　ではもっと深刻な事態になるのだろうか。
「――ソロモン王の復活を」
　第三の声が割り込んだ。既に気配を察していたのか、ゆったりと視線を向ける黒白の魔人に笑いかける翠玉の瞳。黄金のごとき金の髪。
「希代の魔術師、王の中の王、彼らの主の復活――それが僕達の目的でした」
　宝瓶宮の名を持つソロモンの魔道師、ガニュメーデスは蒼白な顔色を隠すように巻いた真紅のスカーフに、指先を這わせながら、そう言った。

2013.12.20

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