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『ソロモンの指輪』
【33 陸りく】 満天の星空にかかる細い月あかりを反射して、なにかがきらきらと地面に落ちた。涼やかな金属音が連続して響く。 皮膚に食い込んだ針金の最後の一欠片を引き抜いて、せつらはそれを地面に放った。 断続的に繰り返される呼吸は荒く。美しく滑らかな頬に、裂けたコートから覗く繊手に、血の赤が無残に散っていた。ぽたり、足元の血溜まりに新たな一滴が加わった。 吹き込んだ一陣の風に地面を覆っていた灰が舞った。さらさらと、惹かれるように何処かへと向かう。 綺麗に洗われた地面に五つ、指輪の煌きが踊っていた。 「魔界都市の主たるあなたには、私の治療を受ける覚悟はあるのかしら」 不意に聞こえた声音には、限りない慈悲と深く淫靡な気配とが違和なく同居していた。 「残念ながら主治医は決まっていて」 「メフィストのこと？あなたも物好きね」 茫洋たる黒瞳が、黒衣の女を視界におさめた。 どのような悪意も小春日和に蕩かす視線と、男も女も快楽の淵へ落とし込む視線が、絡み合う。 「師からの伝言よ。依頼は必ず果たすようにと」 せつらが不思議そうに首を傾げた。そんなことを言うためにわざわざ来たのかと、態度が語っている。 「ヌーレンブルクの魔女からの依頼」 絡め取るように艶麗な声音が深紅を引いた唇から紡がれる。 「ドクトル・ファウストの依頼とは矛盾するのではなくて？」 「どうかな」 「素直に私の治療をお受けなさいな。あなたの大切な依頼を果たしたいのなら」 「藪医者といい貴女といい、僕をおもちゃにし過ぎている」 「誤解だわ。私は誰に対しても平等よ。メフィストのことは――本人に聞きなさい」 同じことを言いそうだ、とは、せつらも口には出さなかった。 視線は自然に絡んだまま。彼らが彼らでなければ正気を手放していたであろう攻防の末に。 「……痛くしないなら」 あっけないほど簡単に諾の意を伝えたのはせつらだった。 「優しくしてあげるわ。死にたくなるくらいに」 にっこりと。この魔女のどこに、と思えるほどに慈悲深く微笑んで。シビウはせつらの頬に触れた。 宣言通りに、じれったいぐらいに優しく、白磁の肌に散る裂傷を指先が辿る。 総毛立つような快楽と激痛が全身の血液を沸騰させながら駆け巡る。 「痛い」 ちっとも痛くなさそうな声音に、 「あら。ごめんなさい」 悪びれぬ声が艶めいて応じた。 風に流された雲が星空にかかる。一瞬の闇夜に男と女のシルエットが浮かぶ。 二つの影が重なって、数秒後、離れた。 「そう――メフィストはあなたをあなたのままにしておきたいのね。本当に、呆れるくらいに馬鹿なひと」 愛しいものにするように、シビウがせつらの手を捧げ持つ。笑みの形に吊り上った唇が、せつらの指先に触れた。開いた唇から覗く白い歯並みと紅い舌。ぱくりと、右手の小指がシビウの口腔に含まれた。 茫としてけぶる黒瞳に転瞬、記憶が回復したかのようなひかりが宿り。しかしすぐに消え失せた。 カラリとなにかの音がした。二人の背後で瓦礫の一端が崩れた音だった。 「全ては仰せのままに――これで満足かしら？」 あたう限りの皮肉を込めた呟きにのせて、マニキュアで飾られた指先が生気の失せた白い頬をすべる。抗議の声は上がらず、漆黒の瞳ももうシビウを映してはいない。 「ほんに。持つべきものは優秀な弟子よな」 感情を交えぬしゃがれ声が返し。 枯れた指先が地面に転がる指輪を順に拾い上げた。 ◇◆◇ 薄く線を引く光明が失せて影絵へと変じた月を見上げて少女が言った。 「月が――消えたわ。星も」 紺碧の空よりも鮮やかなサファイアの瞳は憂いの色に揺れていた。 人形娘の隣に立つ銀髪の可憐な少女が、そっと、金糸の髪の流れる肩に触れた。 ふたりの少女の背後で盛大な爆発音が響いた。「見つけたわさ！」という叫びに合わせ、どすんどすんと巨体が廊下を駆ける音がつづく。 先ほどの爆発で半ば外れた蝶番を引きちぎって扉を開け、廊下いっぱいの巨体をトンブはふんぞり返らせた。 「さあ、行くよ。さっさと準備をおし召使いども」 分厚い唇がぶるんと震えた。笑みを浮かべたのだった。
2014.2.4
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